仕事に取りかかる前に、フェスティバル東京の他の演目総括をざっとやってみる。話題のノーベル賞作家、イェリネクElfriede Jelinek三部作は、もうダントツで新橋の各スポットを彼女の朗読が入るFMラジオの音声を聞きながらストロールする企ての「光のないⅡ~エピローグ? PortB」Kein Licht2/Port B。この街へ出よう系は、ヤン・フートがアート界で先鞭をつけ、飴屋法水なども行ったが、当て所が正しいととてつもない強度が生まれる切り札のひとつ。
まあ、それだけわかっていても、今回、イエリネクElfriede Jelinekのあの跳躍が多く、主格が転倒し、脳のシナプスに去来する言葉を自動書記のように書いた難解なテキスト(震災と原発事故に触発された作品)を読むには、最高の演出。最初の指定場所はなんと、東電本社をはさんだビル谷間の小公園。そのベンチから午後の光に輝く本社と青空、スマホをいじりながら通り過ぎる若いサラリーマン、そして、自分の耳に届くテキストの三位一体によって、のっけから得も言われぬ情動に突き動かされてしまう。
原発事故を起こしたシステム自体の本拠地=サラリーマンワールドである新橋で選ばれたいくつかのビルの空室は、すでに昭和の香りを残しつつもはやノーフューチャー。そこに佇むだけで、体感として、「私たちが経済の繁栄と共に選んできたものの本質」がぐいぐい押し寄せて来るのだ。そうなると、イェリネクElfriede Jelinekの言葉は「自分の中に埋没しているたくさんの想いを引き出すトリガー」となり、その回路が回り出したとたんに、世界はまさに違う顔を見せてくる。
配られたポストカード地図の裏には、被災事故地での報道写真が印刷されており、そのシーンが新橋のいろいろな場所で再現されているという構造にもなっている。それは私たちが事故に対して情報のよすがにしていたそういった「事実を伝える写真や映像」は本当に事実を伝えているのか? ということなのだろうが、この部分は現場ではどうでもいく、挿話的に思えた。というか、場所の地霊とテキストと観客との一本勝負ですよ、これって。
とはいえ、新橋という街は歩いてみると面白いねぇ。不謹慎にも、良さそうな寿司屋料理屋を見つけ地図にメモする私。こればっかりは、止められないんだよねぇ(笑)。
第二次世界大戦末期、対独協力者だったオーストリアの伯爵夫人邸で、バーティーの余興として大量のユダヤ人虐殺があったという実話を元に描かれた作品をヨッシ・ヴィーラーの演出とドイツの役者で演じた「レヒニッツ」Rechnitz(Der Wurgeengel)は、字幕翻訳が「普通そういういい方を人はしないだろう」という硬いもので、ちっとも言葉を追えない。
と思いきや、バンフのコメントで翻訳者が「翻訳を解りやすくするとどんどん恣意が入り、違うものになってしまう」といったような危惧を述べた上の一種、批評的な方法だと知った。うーん、わかるけど、この舞台の場合はイェリネクの言葉は、記号のような了解のみでこちらとしてはよかった。役者がその言葉の意味を発する表情をこちらとしては捕まえたかった。
今回はイェリネクElfriede Jelinekありきでの話なので、先の報道写真の件と同様、演出側はそこにもうひとつ批評性という名のクリエイションを足したんでしょうねぇ。どちらにしても、目で追う字幕はキツく、本当はヘッドホン同時通訳がほしかったですよ。
あともうひとつ、そもそもこの芝居を日本でやることの今日的な意味は、もう、戦争犯罪ですよ。オーストリアは戦後、日本と同じように、戦争責任をあやふやに免れた国であり、ご存じ今、日本は竹島問題等でそのことの決着を迫られているからだ。これ、ドイツの俳優がそのユダヤ人虐殺の悪玉を堂々と演じているところに、彼の国の戦後処理の徹底さかげんが伺えると同時に、パンフにこのあたりの言及がひとつも無いのは、ちょっと面倒を避けたかな、という印象。
(地点)の代表である三浦基演出の「光のない。」Kein Lichtは、もし、今回の全体テーマが批評ということだったならば、最初に繰り広げられる、「私」「あなた」という役者たちによる言葉遊びのような長い呼びかけの導入から恐れ入った。というのは、イェリネクElfriede Jelinekテキストで繰り返される、この私という主格とあなたという存在は、いつも何を差しているのかが不明瞭だからだ。
いや、その前に先ほどの翻訳という意味で言えば、日本語での私とドイツ語のich、あなたとSieは感覚が違うし、そもそも日本語ではあまり主格を立たせない言語でもある。その翻訳問題を最初のシークエンスで露払いするセンスは素晴らしい。まあ、あと役者ね。あの長台詞と集中力はいったいどのようなメソッドによって可能なのかしらん。そして、もの凄い美術とライティング。本当に今、演劇回りに才能は集結していますね。
シンガポールのダニエル・コックDaniel Cockの「ゲイ・ロメオ」は、愛らしい舞台。ゲイである本人の日常を綴った小さい小冊子が配られ(これがまた雑貨っぽくてカワイイ)、そのテキストを指示の通り読みながら、舞台ではインタラクティブに映像やモノが展示され、ダニエルが観客に語りかけ、最後にデートした男性たちへのプレゼントとしてポールダンスを披露する、というもの。
ここに色濃くあるのは、個人的な「してもらって嬉しい。してあげたい」という根源的なコミュニケーションの熱量と信頼、そして快楽。筋が通った美しいバレエ。こういう信頼感と明るさは、ゲイのみなさん特有なもので、それはエンターテイメント商業演劇の通奏低音たるところ。ご存じの通り、それは批評の標的でもあるので、こういうタイプのパフォーマンスは、ゲイ、というニッチにしか花開かないのだな、と痛感。「ビッチの触り方」の著者としては、こういう表現をヘテロの女や男がやった場合に、どう変容するのか? を見てみたいものです。
http://festival-tokyo.jp/
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