先の週末、気が付いたらずいぶんと時流に合った行動をしてしまっていた。それはエコとスピリチュアルです。坂本龍一プロデュース公演ロハスクラシックコンサート2007@オーチャードホール→九頭竜神社という最強カード。一般的には癒されまくり、ということになるのだろうが、傷が癒える感じではなく、“ 生命力と直結した、安心して時間をゆだねることができる”表現群が現在この手のジャンルに集結している気がする。
ロハスクラシックの方は、「ボキャブラリーの多さではなく自分の言葉でしゃべる」という基準にてオーディションで選ばれた五組は、アイリッシュ、インドの武笛、バーンスリー、ボサノバ、西洋古楽、そしてクラシックという陣容。思えば故小泉文夫が世界の各地で音を採集し、ガムランを世に広めたのが80年代の幕開け。西洋音楽至上主義にどんどん風穴があいて、WOMADやワールドミュージック・ブームを経て、今、こんなに普通に演奏されることとなったとは!
個人的にはバーンスリーの寺原太郎のユニットにひとつ感銘、タブラをたたいていた超絶グルーヴの人はなんとASA-CHANG巡礼のU-ZHAANでした。インドで暇つぶしにタブラを習ったことがあるのだが、まあ、打楽器としては、グルーヴはもちろんのこと、音色で“語る”ことができる最強楽器をよくもまあ、自家薬籠中のものに・・・・・。いい打楽器奏者はほんとうに力が入っていないものだが(という理由で、私は和太鼓のあの筋肉パフォーマンスは理解できない)、彼もしなやかで柔らかい腕から波のようなうねりと細かいパッセージが押し寄せてきて、釘付けでした。唯一の20世紀音楽代表だったのが、伊藤ゴローのボサノバ・ユニット。最初のインストはエグベルト・ジスモンティーを彷彿させる、幻惑コンテンポラリーで、布施尚美のボーカルが入ってからは、実にイパネマーな響きが会場を満たす。
いやいや、こういうコンテストラインナップだからこそはっきりわかったことだが、やっぱりテンションの響きはいいねぇー。 短音やドミソの三和音の世界が田園や自然の山々だとすると、そこに一発「シ」が加わると、急に都会の匂いが香る。そう、イタリア未来派が志向した、機械やマシーンの文明の産物に基づくセンスは、ドミソからの逸脱と同義語である。「海 だけじゃダメ、そこにネオンがないと」というのは、大学生の時分に幼なじみの荒井和子が言った名言だが、私もどうしてもここのところの文化にあらがえない。
というわけで、後半は、第二部は坂本龍一、コトリンコ、チェロの藤原真理という三傑のプレイが披露されたのだが、坂本龍一とコトリンコは、その「海とネオン」センスを血肉化しながらも、その身体でもって、人間にとって善であり、安定的な次世代の“ドミソ”を追求しているように思える。「シ」の不安定さは、悪の魅力でもある。そこをわかった上で善をやる、というのが、もともとロハスの思想だったと思うのだけど、コンサートに来ているお客の大半や、エコ志向の人々はこの点、無自覚に優等生的のような感じがする。消費文化の快楽を知り尽くして、いや、美食をやり尽くした後の贖罪的なある種痛みを伴うロハスは共感できるのだけれど、頭っからこの境地の人は、なんだか信用おけないわけです。
藤原真理のチェロの二曲目の選曲は、そこのところの魅力バリバリの林光作品。超格好良くて、レコ屋に走る所存。カザルスで有名な無伴奏もナイスプレイ。ドミソの世界ながら、悪の魅力も内包するヤバい曲。バッハは圧倒的にそういうところがある。
九頭竜神社は以前、ヘアメイクのTAKAKO氏に「天下取りたかったら九頭竜に行け」と言われたことがあって、別段天下を取りたいわけじゃないが、年下の負け犬ご一行が「もう、神頼みしかのこってないっす」っていうんで、ご相伴した次第。陸路ではなく、芦ノ湖湖畔から遊覧船が出て神社に到着するのだが、もうもう、人が多くてまるで音楽フェスみたいでした。雑誌『クレア』に縁結び最強、って特集されたらしい。 その帰りに箱根湯本の日帰り温泉「天山」へ。ここはちょっとびっくりの完成度。設計思想抜群で、露天風呂はまるでバリ島はウブドのコテージを思い出した。海老沢宏環境工房の作。
最近のコメント