先月の2.23日に、東京フィルハーモニー交響楽団の『グレの歌』復活公演にオーチャードホールに行ってきました。
これ、無調音楽の創始者と言われるシェーンベルクの初期を代表し、合唱も入れた総勢300名近い演奏家が奏でる、三部からなる大作(デンマーク詩人、ヤコブセンの長編詩をもとに、大管弦楽、大合唱、独唱による一大オラトリオ、っていうヤツです)で、3.11の震災で中止になった公演が見事に復活したもの。
と、これが凄まじく素晴らしいモノだった、といいますか、まあ、この手の曲は絶対にライブで聴いた方がいい、という大好例。同じ作曲家の『浄夜』でもお馴染みの、半音ずつに移行し、ゆらゆらとたゆたうがごとくの弦の魅力は、この曲の場合、さすがの大人数なので(時々に四台のハープも入る)、非常に色濃く、その場の空気(大地、大海といった例えもできるがとにかく世界の土台)が立ち現れていく。そこに、時折、金管の世俗の音や木管の光線が差し込み、たとえて言うならば、聴衆は、まるで「グレの歌惑星」に不時着陸した地球人乗組員みたいな、大引力の世界観!!
私はポストクラブ時代のクラシックのあり方として、クラシックをクラブ仕様の爆音で聴く「爆クラ」をやっているのですが、そのコンセプトの一つに、クラブミュージックが強くもたらした、環境、建築的な音楽のセンス、というものがあるんですね。そこに今回の『グレの歌』はびったりとハマったのですよ。
なぜ、この世界観感覚が現れるかといえば、それが単に大人数大音量という数の問題何ぞではありません。(実際に生のオケ演奏では、大人数は音量ではなく塊の重さや深さとして出て来るものなのです)場に現出していたのは、生演奏ならではの個々の演奏が発している小さいノイズ(耳にきこえないものも含む)のこれだけの人数の集大成。それらが、無調整にやがて行き着く作曲家の豊かな和声の企てに相まって、ひとつの「音の生態系」をつくってしまっていることに私は大きく、全身全霊を揺さぶられましたよ!!
これは大作だけあって、着手から完成までに11年の時をまたいでいるのですが、そのことと、この物語のストーリー展開 もまたバッチリ合っているのも面白かった。つまり、第1部の王と恋人のラブラブ部分は、後期ロマン派の官能性ばっちりで、所々にラヴェル、マーラっぽい。そして、第三部になると、ロマン派のメロと構造の人間讃歌は、しばしば第一部のモチーフとして現れるものの、全体としてすっ飛び始めて、しいて言えば「愛の概念&抽象性」みたいなモノが、ドカンドドカン”音楽”としてやってくる。
ワグナーやベートーベン、マーラーと違った手触りなのは、その将来無調に繋がっていく、神経症的な不安やデカダンなんぞの現在の若者にも共通のセンスがあるからで、これ、もう、我が爆クラで「グレの歌、試聴会」やっちゃおうかしらん。これ、生で聴かないとまずいでしょ系で、再演署名運動やっちゃおうかしらん。非常にポストクラブ時代のクラシックを象徴する曲でもあるし、世界でもこの曲をプロが演奏するのは珍しいというので、もう、東フィル、看板演目にして、世界のクラシックファンに向けてのブランディングの種にしても良いですよ。
で、 この『グレの歌』を聴きながら私は同時に、この数日前に急逝された飯野賢治さんのことを思っていたのです。彼を「爆クラ」のゲストにお招きしたのは、約一ヶ月前の1月16日のこと。ゲームクリエイターとして、当時、傑出したアート感覚を出していた彼は、実は大のクラシックファン。
その会のテーマは奇しくも「クラシックの物語性について・・・・」。このコンサートには、その時には語りきれなかった要素が詰まりすぎていて、ちょっとこみ上げるモノがあったな・・・。飯野さんに関しては次回のメルマガで書きます。
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