マイ・ブルーベリー・ナイツ
いやはや、凄い映画があったもんだ。
「マイ・ブルーベリ・ナイツ」、ウォン・カーウァイ監督の初ハリウッド作品です。
これ、前評判、あんまりよくなかったんですよ。おまけに、宣伝コピーが「極上のスィーツのようなラヴストーリー」と来ている。これ、ホントに映画会社が客を呼ぼうと考えたコピーならば、とんでもない勘違い。だって、このコピーのおかげで、思わず「今回、やめとこう」と思った私がいたわけですから。
いやね、当方、少なからず、リサイタルとか、イベントとか、編集アンド広告をやっている手前、よくもまあ、こういうコピーが考えられたもんだ、と逆に感心するようなオザナリ感さえ感じてしまうのは、この映画が決して「極上の~」で想像されるような、紋切り型の恋愛劇とはまったくもって違う、恋愛なき時代の現代の恋愛の在り方の一断片を描いてたぐいまれな成功を収めているからなのです。
これ、極上のスイーツというよりも、たとえるならば、酒、でしょう。それも、ボルドーがどうとかのグルメ系じゃなくて、アル中主婦がキッチンに隠していたり、激飲みして意識を失うようなときのボトル一本。まあ、ブルーベリーパイを置いたのは、その反語としての効果かもしれません。LSDのペーパーに、可愛らしい天使の絵やミッキーマウスが印刷されていたりするのと同じということだね。ミッキーだけどトランス、ブルベリーだけど超辛口という。以前の「ブエノスアイレス」も地球の果てまで移動するのに、想いは幽霊のように関係者にへばりついている恋愛という想念の物語でしたが、今回もツカミは同じです。舞台が香港からアメリカに移ったわけだけど、もう、何の問題もなく、説得力ある普遍設定になっています。
しかしながら、香港ピープルもアメリカ人も、土地と関連なき人々なわけで、かれらの移動と孤独の在り方はもはやお家芸。日本にも漂泊の美学はありますが、たとえば最近で言えば、川上弘美の「真鶴」もそうだけど、恋愛などの人間関係に行くのではなく、自然や異世界に人の興味が行っちゃうんですよね。アチラの遠距離恋愛は、パワーと本気度が違う。
ブルースという音楽ジャンルがあります。
失恋や身近な人の死、つたわらない想い、など、人間の「どうしようもないこと」に関して歌われる屈指の表現形態ですが、この作品は、まさにブルースという表現のコンクな塊をそのまま、映像に移し替えたよう。
これ、凄いことなんですよ。ブルースって歌詞のせいか、B級C級を含め映像化されやすいんですが、この音楽自体が持つ、様々な感情や知性や諦観みたいなものも含め、ブルースというものが持つ凄い深みと沃野をそのまま、映像にカルチャーごと置換し得た作品というのは今まで見たことも、聞いたこともない。もう、オールドスクールとなってしまったブルースですが、それが人間の感情に深くコミットしていた以上、形を変えて表現の俎上に乗ってくるはずなんですが、あんまり、これぴったり来るものを今まで見たことがない。ブルースという音楽について知らない人がいたらり、この映画一本みればいい、ってなぐらい。
「欲望の翼」でザビア・クガート、ロス・インディオス・タバハラスを使い、「ブエノスアイレス」で仰天のザッパやハッピー・ドゥギャザーを使った世界一耳の良い監督だけのことはある。このような失意を歌ってあまりあるジャンルは、演歌もそうですし、シャンソンもそう。しかし、悲しみの中にも妙に醒めた独立独歩の力強さがあるところがブルースの真骨頂で、そこが見事に、監督がもとから持っている、独特な人間関係感に呼応していると言えます。
監督的には舞台背景が、香港から舞台をニューヨークに変えたわけですが、「かりそめの地を行き来する他人だからこそ、必然に誓い強度を持つ恋愛」はよりいっそう鮮やかに描かれている。こういう肌合いを見せられると、KYなどどいって同質の空気の中でチンケな色恋沙汰に明け暮れている日本人たるおのれを呪いたくなる場面は多かったですね。実際。
ノラ・ジョーンズの存在は不思議の国のアリスでもあり、星の王子様でもあります。
ガラスの覆いをほしがったバラの花はすなわち、女ギャンブラーであり、王子様であるノラは、最後に地球で自分を待っている男の元に帰還するというストーリー。
ポスタービジュアルで有名な、ノラとジュード・ロウの卍型のキスシーンは、そこに至る状況も含めもの凄く官能的で美しい愛の表現。
もう、これは、バカラックとか、ポール・マッカートニが造り上げるメロディーのようなもので、こういうことが出来る映画監督を天才と呼ぶのだと思うのです。
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