一昨日の休日前は、超弩級の演劇二本立て。
バナナ学園純情乙女組とシアターコクーンの長塚圭史演出のムロジェックの『タンゴ』という、ある意味極北同士の時間差攻撃にやられちゃったのか、昨日の休日は冬眠状態でした。バナナ学園は、敬愛する演劇ジャーナリストの徳永さんのリコメンにて初参戦だったのですが、まあ、多分今の演劇が時代と切り結ぶところの最先端を突っ走っている集団ということは間違いがない!
秋葉原、アニメ、ニート、草食男子、とまあ、この辺りの言葉でしか伝わってこない、現代の若者の新しい空気感は、音楽では相対性理論、そして、神聖かまってちゃんが見事に表現化して、私たちにソレをわからせてくれましたが、演劇でもその流れはあって、快快に続き、こんな才能がひかえていたとは! AKB48もどきの制服コスプレ集団男女がハイテンションで歌い踊って暴れまくるだけ、といったら元も子もないような舞台なのですが、その狂騒とノイズ(大友系ではなくて、歌舞伎町のセクパブの店内放送系)感だけで2時間あまりが表現として成立してしまっているんですよ。
とはいえ、この"俗"を取り入れる方法は、小劇場演劇ではそれこそつかこうへいから、第三エロチカから、アングラの手法としては目新しくも何ともないのですが、バナナが凄いところなのは、舞台に出る有象無象の役者たちが、全く役者的な自意識と無関係なところ。それ、しろうとが舞台に立った時の異化作用、といったものとも違うんですね。
少年少女時代からブログでカラオケで自らをオモテにさらし続けてきた世代のあまりにも自然で屈託ない"表現エネルギー"をそのまま、演劇の舞台という生け簀に呼び活けた、という演出家の手腕はもうもう凄いとしか言いようがありません。客席には、ホントにこのバナナ学園をアキバ系の新モノとして追っかけているような真性オタクファンも紛れ込んでいますし、女の子の何人かは本当にアイドルを本気で目指しているようにも見える。そういう、ギリギリなところで勝負をかけてきて、演劇の現場自体をトリッキーなものにしてしまっているのにも恐れ入った次第。
まあ、『女装する女』『四十路越え!』の著者的なジェンダー観点から見ると、女の子たちと一緒に歌い踊る男子集団たちの、かぶくでもなく、お笑いでもない嬉々とした制服スカート女装は、もうもう、現在の男性すべてが持ち始めている"めんどくさい男を降りて、カワイイ女願望"がだだ漏れかつそんなに楽しんじゃっていいの?!ぐらいの屈託のなさなのです。
世の中が成熟していくにつれ、私たちの中に抗えなくわき起こってくる"子供化"願望は、バナナたちが、無防備に客席になだれ込んで、舞台と客席のケジメをユルユルにした瞬間、大きく観手の心に自覚される事になってしまう。一見、ノリだけで作ったバカ舞台のようなふりをして、実は「この時代に役者とはどう見え、そして彼ら自身はどう舞台に立つべきなのか」という方法論や集団のあり方=政治をコチラに突きつけてくるあたり、意外にも寺山修司の天井桟敷と似ています。
彼がやったのは「既存の価値観のひっくり返し」でしたが、バナナがやっているのは、「情報の速度が速すぎちゃって、意味が形を結ばない」価値なき時代の躁病的な舞踏、ってヤツでしょう。これ、音楽がクラブで先んじ、ドラッグカルチャーにも通じる、エゴの手放しと両輪のものです。天井桟敷は演劇実験室と銘打ちましたがか、バナナのやっている事はそのスローガンに今最も近いかも。youtubeやツイッターなどの、発信ツールに関しても、彼らは抜かりなく全体像としてバナナ学園を表現している。
長塚圭史演出のムロジェックの『タンゴ』は、68年に書かれた脚本が、そんなバナナ学園な現代においても、充分に通用する、理想と現実、野党と与党の物語。長塚圭史演出の白眉は、ラストのブラックな笑い。これ、全く喜劇としては描かれていないのですが、構造としてはひとりの真面目青年が、奇天烈人間の中で大いに悩む、という、「マカロニほうれん荘」そのまんま。
しかし、主演の森山未來は凄まじく上手い。あの膨大な台詞量を難なくこなし、その言葉がいちいちこちらに明瞭に刺さってきます。決して舞台向きの派手な佇まいの人ではないのに、光量がバカでかいんですよね。本当に将来が楽しみなのだ。
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