本題に入る前に、ななんと、先週末の土曜日に『女装する女』アマゾンのベストセラーカウントで一位! を記録しました。めでたい!
先の20日、「女装する女」の出版記念トークショーが青山ブックセンター本店で行われました。ゲストはお馴染み菊地成孔さん。11月に彼のオーチャードホールでのコンサートのプレイベントのトークショーにお呼ばれしたものの続編、という作戦。
そうなの。前回、菊地さんがお題として用意していた『セックスアンドシティー』について、私が脱線ばかりしたもんだから、語りきれなかったところを、まあ、文化系セックスアンドシティー本である「女装する女」を巡って語り尽くそうかな、というプランでした。
でもまあ、プランというものは容易く、現実が裏切るわけで、なんと、この時、菊地さん、「ジ・アウトサイダー」というディファ有明でシロウトの喧嘩野郎たちが戦うという格闘技興業を見てきた直後。話は”女”っちゅーよりも、ひたすら、ヤンキー、不良論。
アフォリズム的とさえ言える名フレーズ師の彼によって私は今までに、「湯山さんは勝新似ている」など、周囲の人間が笑い転げるような形容で語られていますが、今回のも鋭かった。「湯山さんは毒舌だけど、その毒は吐いたそばからお菓子になっちゃう」ですと!
私自身は本当に悪口が大好きでプラス日常的に何かに怒っているので、昨今、それを反省していたのですが、なーんだ、お菓子ならばどんどん言っちゃえ、って感じです。しかし、これは文章表現者としては痛し痒しなんですね。そのことが、独特の文章芸として魅力的にもなるのだろうけど、人を心底突き刺すような激しい表現には成り得ない、という限界説も臭ってくる。
でも、まあ、そうだろうね。私のi-podの音楽ラインナップもそういえば、見事にお菓子っぽいんですよ。現在、ヘビロテのフォーレのレクイエムなんて、鎮魂歌=レクイエムなのにデートミュージックみたいにスィートでロマンチックだもの。虎屋の羊羹「夜の梅」だもの。
菊地さんは、「湯山さんはお嬢様だから」説を一貫して主張しており、「ゆえに、ヤンキーではない」と言い続けているのです。私はそれを否定はしませんが、本当のところは、心の中にはヤンキーを一匹、生息させています。そうじゃなかったら、何で小学校六年で吉祥寺のシェーキーズに通い、アメリカンスクールの悪い不良たち見学に血道を上げたり、長じて、ツッパリのお姉さんにロンタイとアミサン借りて新宿のディスコに踊りに行ったりしますかいな。
不肖、私、十代の時分から、「流行のファッション風俗」は、すべて着たおしてきた女であり、フィフティーズ、リセ、サーファー、ニュートラ、ニューウェーブというトライブを紙袋に着替えを入れて、その都度、トライブのただ中を体現してきた女。ということは、もし、私が若かったら、絶対にギャルはやっていますな。ギャルは私にとって「解らない」ものではなく、かつての身体感覚
から「容易に理解できる」ものでもあります。
菊地さんからの書評として「<差別と嘲笑を糧に発展を遂げた80年代カルチャー>の、差別と嘲笑抜きの、ピースでハッピーな再浮上である」とのお褒めのお言葉をいただきました。
うーん、これもお菓子説と同様、私がどうしても体現してしまう、肯定感と明るさのことを述べていますね。「湯山さんを見ていると元気が出ます」という人は大変に多いが、この本の感想を述べてくれる女子たちも「本を読んで元気になった」という人が大変に多いのです。
私は音楽でいうと、「人生応援歌」が死ぬほど嫌いで、ゆえにそういう出自があるヒップホップもどうでもいい方なのですが、まんま、やってることはソレじゃん、というアンビバレンツ。
人生、複雑ですな。
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